家計収支に関する新たなデータ構築で学術研究の進歩に貢献することを目指す「RICH (Realtime Income and Consumption of Households)プロジェクト」。
新たな家計収支調査において、金融データプラットフォーム「Moneytree LINK」のプロダクトの一つであるLINK APIを利用している。
現在の日本経済において、家計収支は最も重要な景気指標の一つであり、リアルタイムに家計行動が把握が可能な「RICHプロジェクト」は経済データの新たな収集方法を探る貴重な取り組みと期待される。アカウントアグリゲーション技術で得られる家計簿データを学術的に利用している日本初の取り組み「RICHプロジェクト」について、京都大学 経済研究所の宇南山 卓 氏にお話を伺った。
プロジェクトの目的は、家計が経済の中でどのような役割を果たして、何を決定しているのか分析することです。
従来、家計の収入・支出を把握し分析するために、学術研究で利用できるのは家計簿を使って収集された政府統計のみでした。家計収支は私たち「人間」の経済活動を表す情報で、 特に支出は「消費」と呼ばれ、私たちがどれだけ豊かな生活ができているかの指標であり、 景気や経済成長などマクロ経済の現象を分析する上でも最も重要な情報の一つです。
その家計収支の分析に用いるデータに含まれる誤差に近年注目が集まっています。これまで、政府が実施する家計調査や全国消費実態調査などで統計調査に基づくデータが信頼性の高い情報として使われてきましたが、政府が定めた様式に家計簿を記入してもらう調査方法そのものの限界として大きな誤差が含まれる可能性があります。調査協力者の多くは、出入金を正確に記録する専門性を持っておらず、定められた様式の家計簿の記入自体が大きな負担になります。また、家族構成や収入などのプライバシーを政府が強制力を持って調査することへの抵抗感もあり、正確な調査は容易ではありません。そのため、完全な家計収支データを取得するのは、政府が行う調査でも難しかったのです。
その政府統計の課題をMoneytree LINKで解決できると考えたのが、プロジェクトのきっかけです。ただ、自動的に収支を記録する「家計簿アプリ」のようなサービスは国際的には学術利用も進められていましたが、いくつか困難な点や問題点がありました。一定の成果を出しているアメリカの先行研究では、アプリを利用している数十万人のデータを「ビッグデータ」として分析しています。銀行やクレジットカードの取引情報にある学費の支払い状況や子供服の購入履歴から世帯状況を推測し、「子供のいる家計の行動」として分析する手法です。この方法では、性別、年齢、家族構成などの正確な世帯属性を把握することができず、世帯属性の変化が家計収支に与える影響の分析ができなかったのです。
経済学を使い「人々の行動原理」を明らかにするには、家計の3つの側面を全体として網羅的に把握することが極めて有効であり重要となります。
こうした情報を全体として把握するには、家計簿アプリのようなものとは別に調査をする必要がありました。
しかし、アプリ運営者から一括して家計データを入手して分析するビッグデータとしての使い方では、こうした情報は完全には入手できず、個人情報利用に対する利用者の同意が不十分になりがちなため追加で調査することも困難という問題も発生しました。
「RICHプロジェクト」はこれまでのビッグデータとしての分析をする先行研究とは異なる手法でこうした困難な点を克服しています。
調査協力者を募集する際に個人資産サービス「Moneytree」の利用者に直接コンタクトを行い、個別に明示的なデータ利用の許諾を得て、家計データの取得と家族構成や年齢などの世帯属性データを取得する独自の追加調査を行っています。
属性データを取得するアンケートシステムと、家計データを取得するMoneytree LINK、そしてその2つを統合するシステムによって家計の3つの側面が揃った網羅的な情報の構築を可能にしたのです。
複数の金融データを集約するアカウントアグリゲーションというテクノロジーにより家計簿アプリが登場したことで、今まで多くの労力を要していた家計の支出総額と内訳を、高い精度で簡単に把握できます。そのテクノロジーの存在を知ってすぐに、この技術をを活用して情報収集をしたいと思いました。家計簿アプリを提供している日本の会社に何社か声をかけましたが、家計簿アプリの家計データを利用するには、さまざまな制約を受け入れる必要がありました。
RICHプロジェクトは、勤務先や性別、年齢、家族構成などの属性データはアンケートで取得し、家計簿アプリから取得した家計データと掛け合わせることで、世帯属性の変化が家計収支に与える影響を正確に分析することを目指しています。しかし、家計簿アプリの家計データを利用する場合は、それを提供している会社のプライバシーポリシーの範囲内で提供会社の保有するデータを利用することしかできず、属性データ取得の追加アンケートのようなものを実施することは許されませんでした。我々は学術研究の観点から、これまで政府が実施した統計調査の調査項目と同等の属性データの取得を目指していましたが、この制約により十分な情報を収集することが困難になりました。
一方、マネーツリーはプロジェクトに影響を与えるような制約がなく、研究者主体の極めて自由度が高い研究が可能でした。まず、データ利用の同意取得では調査対象者である個人資産管理サービス「Moneytree」の利用者に対し、RICHプロジェクトとして新たにデータの利用用途やプロジェクトの目的を提示する機会があり、調査対象者から明確にデータ提供の同意を取得できました。これにより追加アンケートの調査項目を自由に設計し、今までの分析ノウハウを活用しやすいデータ構築が可能になりました。
次に調査システムの開発についても制約はなく、調査システムの開発をRICHプロジェクトとして行い、プラットフォームである「Moneytree LINK」から調査システムに家計データを連携できました。
8割以上のプロジェクト参加者が1年以上継続してプロジェクトに協力してくれています。
自分のどのようなデータが何の研究に利用されるのか、きちんと理解した状態でデータ提供に同意するかを参加者自身が決められることが高い継続率の理由だと感じています。
RICHプロジェクトでは特定の利用者に対してアンケートを行い、加えて家計データを一緒に取得し家計調査を行うことが目的でした。
個人資産管理サービス「Moneytree」の既存の利用者を調査対象としているので、アプリのプラットフォームであるMoneytree LINKのAPIをそのまま利用出来た点が調査システムの設計を非常に簡単にしてくれました。私の考えていた調査システムにMoneytree LINKを導入したことで一気に情報量が増えたのです。
マネーツリーの協力なしに家計データを取得しようとすると、調査会社に依頼し、調査対象者が支出を記録するシステムをゼロから作り、正確な記録をお願いしなければいけません。家族構成や年齢のような属性データは、ある程度典型的な質問で情報を取得し、アンケートシステムに回答を組み込めますが、家計の収支は非典型的な質問内容で簡単にはシステムにデータを記録できません。また、調査参加者には、政府統計でも協力してもらうのが難しいような調査内容の記録を完全に任意でお願いしなければならないのです。
Moneytree LINKのLINK APIを利用することで、家計データを統一されたフォーマットで調査システムに連携し、調査システム内で利用者の属性データと家計データを突合しています。これにより、信頼性の高い所得・消費に関する情報をリアルタイムに統計化することが可能となります。
これまで研究者が自らデータを作るというのは、人数も研究費用も大規模で難しい一大プロジェクトでした。
「RICHプロジェクト」は、文部科学省の学術振興会の科学研究費補助金の「基盤A」の研究課題として助成を受けています。科研費というのは、学術研究の中心的な資金源であり、必要とする資金に応じて種目が分かれています。最も規模の大きなものは「特別推進」という種目で数億円規模のプロジェクトが採択されるものとなります。これまで、社会科学の分野で調査対象者にアンケートを実施して新しいデータセットを作るようなプロジェクトでは、2億円以下の資金を必要とする「基盤S」とよばれる種目で実施されることが多かったです。それに対し、「RICHプロジェクト」はMoneytree LINKと既存のアンケートシステムを組み合わせることが出来たことでプロジェクト全体の予算が5000万円以下となる「基盤A」でも資金的には十分に実行出来ています。さらに言えば、当初、試験調査をやっていた際は「基盤B」だったので、「基盤B」以上の予算規模があれば十分に検討可能な予算規模と言えるでしょう。
人間を分析対象とする経済学では、一般に「実験」をすることが難しいとされます。これまで、実験の代わりに、人のお金に対する考え方を、仮想的な状況を想定してアンケートをしてもらったり、少額の賞金のようなものを与えてゲームのような形式で行動を観察する「ラボ実験」などの方法がとられてきました。しかし、アンケートやそのラボ実験では、あくまで仮想的な状況での行動しか観察できず、実際の経済問題に直面した場合の人々の行動を捉えていないという批判があります。
それに対し、いわばラボ実験のリアル版として、自然実験とよばれる分析方法が一般化してきています。これは、現実に起こったイベントのうち「実験的な」な状況をみつけて、人々の行動を分析するという方法です。たとえば、政府が実施した給付金でどのようなものを購入し、どのような財産を増やしたり減らしたりしたのかを分析することで、「人間が現金を手に入れたときに取る行動」を明らかにしようとする方法です。
この自然実験を適切に実行するには、詳細な人々の行動をリアルタイムに観察することが必要になります。Moneytree LINKから取引明細データを取得することで、現金の動きとともに消費者の反応も日次単位でタイムラグなく見えることができます。この豊富な情報こそ現代の経済学で求められるものなのです。
現状では家計収支の克明なデータを収集することまでを目標としていますが、将来的にはさらに、実際のデータを見て分析するだけでなく、仮説のもと実際に人々に働きかけをする「フィールド実験」のようなもので人々の行動に対する理解をより深めたいと考えています。フィールド実験とは、日常の生活に介入して経済学の理論の正しさを検証したり、政策の効果を評価する方法です。
フィールド実験での介入方法には、お金を配ったり、特定の商品を供給したりする直接的なものもありますが、関心があるのは「情報」を与えるような介入です。人々は必ずしも経済学が考えるベストな行動はとっていません。それは、「経済学者の考える合理性」が間違っている可能性がありますが、もしかしたら人は情報や知識が足りないため本来であればとるべき行動がとれていないのかもしれません。そこで、たとえば家計簿診断のような機能を提供することで経済学的に正しい行動を提示し、その機能の提供のなかった人との行動の違いを観察して「正しい情報」の影響を観察してみたいと思います。
正しい情報に人々がより良い行動をとらせる力があるならば、正しい金融・経済学の知識を普及させることで人々の生活を改善出来るかもしれません。経済学を発展させ、より多くの人の生活を豊かにするために、RICHプロジェクトが少しでも貢献できればと思います。
RICH(Realtime Income and Consumption of Households)プロジェクトは、家計収支に関する新たなデータを構築する学術的なプロジェクトです。京都大学経済研究所の宇南山研究室が主体となって実施する調査であり、科学研究費補助金の助成を受けています。調査は申込みのあった資産管理アプリ「Moneytree」利用者を対象に実施し、金融データプラットフォーム「Moneytree LINK」を活用することで家計収支情報を自動で把握します。
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