JR東日本のIC乗車券として誕生したSuicaでしたが、それがいつのまにか、駅ナカの買い物に利用できるようになり、さらには、街ナカのたとえばコンビニの買い物にも使えるようになりました。
そして、カードに飽きたらなくなったSuicaは、携帯電話の中に入り活動範囲を広げ、最終的にはiPhoneの一部として世界を舞台に活躍をするようになっています。
その過程はまさに、蝶が幼虫からサナギを経て、大空を飛び回る成虫に脱皮を続けていく進化を連想させます。
Suicaの可能性を、私の取材と体験を元にお話したいと思います。
東京オリンピックを間近に控え、観光立国の旗を掲げインバウンド消費の増大を目論む日本にとって、キャッシュレス化が喫緊の課題です。そのキャッシュレス化に現時点で大きく貢献しているものといえば、JR東日本が発行する交通系電子マネーのSuicaです。このことに異論のある人はいないでしょう。
今やSuicaは毎日の生活に欠かせない必須アイテムになっており、首都圏や東日本で通勤に鉄道を利用するビジネスマンや駅ビルやコンビニ、スーパーなど買い物をする人々にとって欠かせません。
Suicaの発行枚数は、2018年7月末現在で6670万枚(『月刊消費者信用』9月号)となっています。PASMO(3399万枚)、ICOCA(1845万枚)に比べダントツです。交通系だけではなく数ある電子マネーの中でもトップクラスの発行枚数を誇ります。
SuicaがJR東日本の本業(運輸業)を支えるもう一つの柱になっているといっても過言ではありません。そこでここでは、私の体験と取材をもとにしてSuicaの〝進化〟の過程とその魅力をあらためて見ていくことにします。
非接触IC・FeliCa(フェリカ)を搭載したSuicaが登場したのは2001年11月でした。私はすぐにJR東日本の髙田馬場駅までSuicaを買いに行きました。
最初は恐る恐る自動改札機にそっとSuicaをおくとピッと音がして、行く手の扉が開きました。そして自動改札機をスルリと通り抜けて駅構内に入るのですが、まるで魔法を使っているような楽しさがありました。
それからSuicaはあっという間に広まり、順調に発行枚数を増やしていき、1年後には500万枚に達し、3年後の2004年末には1000万枚の大台を突破します。
Suicaの魅力はIC乗車カードとしてだけではなく、駅ナカ、街ナカの買い物に電子マネーとして使えることです。同じフェリカ型の電子マネーにセブングループのnanacoやイオングループのWAONがありますが、発行枚数はそれらを上回りますし利用頻度も引けを取りません。
全国のJRでも使えるように、共通規格であるサイバネ規格を採用したこともSuicaの普及に貢献しました。サイバネ規格を採用したことで、現在JRグループ各社が、それぞれ発行している交通系電子マネー(Kitaca、manaca、ICOCA、SUGOCAなど)との相互利用が可能となったのです。理論的には、北海道から九州まで全国のJRでSuicaが使えることになっています。
1987年に分割民営化によってバラバラになった国鉄でしたが、Suicaによって、オールジャパン体制が整ったと言えるでしょう。一枚の切符で全国のJRで使えるという国鉄の復活は、心ならずも分割民営化に追い込まれた旧国鉄マン(分割民営化に巻き込まれた人たち)の夢でしたが、その1つは実現したことになります。
Suicaの普及を促したもう1つの要因は、ビューカードの独立です。もともとJR東日本のカード事業部だったクレジットカード部門が2009年にSuicaを側面から応援しようと独立したのが株式会社ビューカードでした。
Suicaはプリペイド型ですから常にあらかじめお金を入れておかねばなりません。これをチャージと呼びますが、現金かクレジットカードかのいずれかで入金します。クレジットカードで入金した場合は入金額に応じてポイントが貯まります。
このときビューカードは他のカードの3倍の1.5ポイントが付きます。オートチャージができるのはビューカードだけで、スイカ+ビューカードにするとカードライフを十分に楽しめる仕組みになっています。
Suicaのサービス開始から10年を経過した頃には、首都圏は、世界で最も進んだICカード先進地域といわれるようになっていました。東京を中心とする首都圏ではJR東日本を中心とした鉄路が網の目のように張り巡らされ、鉄路ばかりでなく、街ナカの店でもSuicaや私鉄のPASMO、さらには楽天Edy、流通系のnanaco、WaonといったFeliCa型の電子マネーがたくさん使われていたからです。この頃にSuicaは月間1億件という利用件数を記録しています。しかし、ほとんどの日本人はこうしたことを知らず、重要性にも気づきませんでした。
この新しいキャッシュレス世界の出現に目を見張ったのが外国人たちでした。日本に進出している外資系企業の支店や営業所には毎月のように本国から幹部がやってきます。
その人たちが一様にショックを受けるのが新宿の朝夕のラッシュアワーです。何万人もの通勤客がSuicaをかざして整然と改札を通り過ぎる様子を見て目を丸くします。会社に戻ると、自動販売機にSuicaをかざしてコーヒーを飲む社員を見てまた驚くのです。
電子マネーは欧米で誕生したものですが、実際に普及・活用しているのは日本が一番でしたから、東京の様子を見て度肝を抜かれたのです。
度胆を抜かれた会社の1つがアップルでした。そのアップルが、が2014年にアプローチをかけてきました。
アップルはご存知のようにスティーブ・ジョブスが創業した世界一のスマートフォン・iPhoneのメーカーです。そのアップルの幹部がJR東日本に接触してきて、「次のiPhoneにスマホ決済サービスのApple Payで使える電子マネーとしてSuicaを載せたいので力を貸してくれ」といったのです。
載せるといっても単にアプリの1つとして加えるのではなく、「Suicaファースト」ですべてをSuicaのためにカスタマイズするという破格の条件でした。
これに対してJR東日本側は、あまりにも唐突だったので最初は戸惑いましたが、実は願ってもない申し出だったのです。順調に会員数を増やしているSuicaでしたが、Suicaが採用しているFeliCaは非接触ICの国際標準規格ではなく、日本以外では使えないガラパゴス規格としていずれ淘汰されてしまう運命にあったのです。最終的には、国際標準規格であるNFC(タイプA/B)に変更しなければならないといわれていました。
しかし、規格を変えるのは資金面で難しく、とてもできないことでした。だからといってこのまま国内規格のFeliCaに頼っていては、ジリ貧になるだけです。そうしたときに前述したアップルからの話が転がり込んだのです。
JR東日本は真剣に検討を重ねました。外資系との共同事業はほとんど経験がありません。自信はありませんでしたが、飛躍のチャンスと捉え、アップルの申し出を受けることにしたのです。
こうしてSuicaは、日本で2016年に発売されたiPhone7に搭載されて、Apple Payの普及の手助けをすることになったのです。アップルの考えを短い期間に具体化するのは大変難しいものでした。アップルとの議論やすり合わせはアップル側の秘密主義に阻まれてなかなか進みませんでした。米国本社とのやり取りも言葉の問題などでちぐはぐなものでしたが、アップル側がSuicaに惚れ込んでいたので、基本的なところはJR東日本の要求を飲んでくれました。これは本当にラッキーでした。
アップルがSuica搭載にこだわったのは当時スティーブ・ジョブスが亡くなった直後で、新しい成長分野を探していた時だったからです。ジョブスは金融や決済にはまったく無関心でしたが、アップルにとって金融や決済はやはり避けては通れない分野であり、最も相性が良く収益の見込める分野であるとCEOのティム・クックは考えていたようです。
ただ、その際にどのプレーヤーと組んだらいいのかで悩んでいたといいます。そうしたなかでJR東日本のSuicaなら、母体もしっかりしているし、単なる決済カードではなく、乗車券としても活用できるという点を評価してビジネスパートナーとして選んだといわれています。
アップルやJR東日本の関係者に取材すると、Apple PayでSuicaを使えるようにするための技術開発は試行錯誤の連続だったようです。たとえば〝Suicaカード〟そのものをiPhoneに取り込むのにどうするかで開発スタッフは頭を悩ませました。そして得た結論は、Suicaカードの情報をそのまま吸い取ってスマホの中で新たな仮想スイカを作り、そちらにバリューを移してしまうというものでした。
ここに新しい技術が使われました。1000円チャージされていたSuicaカードがiPhoneに吸い込まれた途端に、元のSuicaカードの残高はゼロ円になってしまうのです。不思議な現象ですが、お金を残さないようにしないとiPhoneに移すたびに1000円増えることになってしまいます(カンタンな技術だと技術者はいっていましたが、その仕組みは秘密ということでした)。
さらに、加盟店に購買者の履歴を渡さないトークンという仕組みも考えられました。これは、店に残した購買情報を悪用した不正利用を防ぐためです。カード情報は暗号化して店に残らないようにして、処理が終わったら暗号を解いてカード会社に送るという方法です。これまでのクレジットカードでここまで徹底した防犯対策を講じている例はありません。
また、「Suicaファースト」を名乗っていることもあって、Suicaの機能を補強するための乗り換え情報アプリをダウンロードできるようになっていて、通勤や旅行に役立つようにサポートしています。
このようにApple Payは、それまでのカードの概念を変える革新的な技術が様々組み込まれていました。リアルのカードライフをそのままスマホの中に置き換えようという画期的なものだったのです。
アップルにとって誤算だったのは、カード業界の盟主VISAとの話し合いが決裂したため、VISAに変わる信頼できるカード会社を探さねばならなくなったことです。そこで選ばれたのかiD(ドコモ)、クイックペイ(JCB)というFeliCaネットワークのポストペイのメンバーたちでした。
Apple Payでは、この2つのブランドが決済全般を管理することになりました。そのためApple Payに入ったカード券面からVISAのマークは消え、新しくiDかクイックペイのマークが付いています。そしてこのマークの加盟店でしかそのクレジットカードは使えなくなりました。
日本でのApple Payの決済がこのような仕組みになったのは、カード会社に配慮し、カードという形にこだわったために起こったことだと今になるとわかります。
スマホ決済するには、カードにこだわらなければ、QRコード決済のように簡単なアプリをダウンロードすれば済むのですが、それではカード会社は自らの存在を主張できなくなります。ですから、カード会社の顔を立てるために、どこかに「カード」のカタチを残す必要があったのです。
ここまでカード会社に配慮しないとアップルが日本の決済市場に乗り込むことができなかったという事情もあったのですが。
いずれにしろ、Apple Payはカード主体からスマホ主体に移行する転換期に出てきたユニークな決済サービスといえるでしょう。しかし、このApplePayのサービスが始まると、JR東日本には大きなメリットがありました。
Apple PayにSuicaが標準装備されるようになれば、Suicaはガラパゴスどころか世界中どこでも使えるようになるわけです。将来、Suicaが世界を席巻することもあり得るのです。
世界のあちこちで人々が改札にSuicaをかざす光景が見られるようになるかもしれません。
直近の未来としてまず考えられるのが2020年の東京オリンピックです。大勢の外国人が日本にやってきますが、世界中で使われているiPhoneにFeliCaが搭載されていつでもSuicaをダウンロードできるようになっているかもしれません。
iPhoneを持った外国の人々が成田空港でSuicaをダウンロードし、すぐに鉄道に乗って全国の観光地に行けるようになります。買い物もできるようになります。
それにしてもSuicaの進化には目を見張るものがあります。この過程は、まさに蝶のようです。卵(切符)から幼虫(IC乗車券)になり、幼虫からさなぎ(買い物のできる電子マネー)になり、蝶(モバイルSuica)になって空を自由に飛びまわるというイメージです。
Suicaの進化のことを考えるとき、最初から私はこの蝶のイメージを思い浮かべていました。そして最後は携帯やスマホの中に入って自由に空を飛ぶというところで終わっていたのです。
一時、FeliCaが非接触ICの国際標準規格を取得していなかったため、結局Suicaは日本だけで使われる〝ガラパゴス〟として終わるかもしれないといわれたことがありました。
しかし、Apple Payの登場でその不安は払拭されました。今はこう考えています。「Suicaは「蝶」になって大空を自由に飛んでいたが、Apple Payという大きな鳥に食べられてしまった。しかし、胃の中でしぶとく生き残り、その者は、したたかに転生して腹の中から鳥をコントロールし始めた」と。新しく強靭なSuicaに生まれ変わったのです。
JR東日本が新幹線を東南アジアやアメリカに輸出するときに、それぞれの国の新幹線の沿線の街でSuicaを普及させる、それがSuicaの果たさなければならないミッションなのです。これは決して夢物語ではないはずです。アップルも望むところでしょう。
問題はこうしたSuicaのグローバル展開を今のJR東日本やビューカードの幹部たちがどう考えているかです。千歳一遇のチャンスなのですから、アップルの尻を叩いてでも積極的に海外に出ていく姿勢を見せて欲しいものです。駅ナカに縮こまっているのではなく、国外(クニソト)で戦って欲しいのです。Suicaの可能性に賭けてください。
岩田昭男 消費生活ジャーナリスト。1952年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。同大学院修士課程修了後、月刊誌記者などを経て独立。流通、情報通信、金融分野を中心に活動する。 2018年7月には、30年になるクレジットカード研究と、その間のキャッシュとの戦いを描いた新書「キャッシュレスで得する! お金の新常識」(青春出版社)も出版。
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